ピエールの心臓

フリーランスを目指す「20代×転勤族の妻×専業主婦」のブログ。転妻ライフ・文学・インテリアが中心。自称「健やかなスピリチュアル研究家」。

【結婚や芸術はオワコンだ?!】夏目漱石『吾輩は猫である』読書感想文

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

夏目漱石の『吾輩は猫である』を今更ながら読みました。

 

忘れないうちに読後の感想を書き記します。

  

 

▼目次▼

 

 

 

漱石ってコメディーが書ける人なんだ

 

まず第一の感想は

 

『草枕』とテンションが違い過ぎる。

 

です。

 

この間1,2年なのに、漱石さん何があったんだろうと目頭が熱くなりました。しっかし、『吾輩は猫である』がこんなにものそいコメディーチックな滑稽小説だとは予想だにしませんでした。

 

ビル・エヴァンスのあのナリからあんなに繊細でリリカルなピアノが鳴るなんて想像できないように、1000円札だった夏目漱石さんの立派な口髭から喜劇が生まれるなんて思いもしなかった。(ただし二人に共通するのは神経質そうな見た目。)

 

夏目漱石 名作ベストセレクション 『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』

 

最後は割と重い口調になるのですが、序盤はほんとうにユーモアたっぷりで思わずくすくす笑ってしまいます。 

 

 

 

社会批評を小説で語る理由

 

この「吾輩は猫である」という物語は「人間という滑稽な生き物」を猫の目線から追っているわけだけど、それは実は人間である夏目漱石が書いているという二重構造がまたおもしろい。

 

社会批評もまぁ猫が言ってるんなら罪にはならんだろ猫だし。うん猫だから。

 

みたいな?

 

 

たとえば、当時の日本では日露戦争の真っただ中でした。そんな時流に漱石は「吾輩は猫である」の中で日露戦争を「猫のねずみとり」になぞらえて、旅順湾を旅順「椀」といいかえたりしている。(鼠捕りが台所で行われたため。)猫からしたらねずみとりも戦争もおんなじようなもんですよ、と。

 

実に「おいおい、おこられるぞー!」な内容じゃあありませんか。

 

だけどこれが小説の心髄ですよ。

 

アホ真面目に正面から「日露戦争は猫のねずみとりである」なんてかましたらそりゃ怒られますよ。でも猫がただねずみをとっている描写ならお咎めがないでしょう、分かる人には分かるというだけで。

 

これぞフィクション!!ですよね。

 

小説は虚構だ、真実ではないから意味がないってよく言われるけど、よく考えても見てください。どうして文字が真実を描きうるというのですか。

 

違いますよ。

 

あのカメラでさえ真実は切り取れないんですよ。

 

文字というものは一種の「絵」ですよね。どれだけ写実的な描写をしようと絵が現実ではないのと同じです。

 

「絵」といってまずければ文字は「記号」です。「※」とか「@」とかと同じです。文字というのは決して真実そのものにはなれない、受け取り方によって意味が変わりかねないような類の表現方法なのです。つまり文字そのものに真実をかたることはできないんですよ。

 

 

だからこそ、嘘をつく。

嘘と言うより「たとえ話」ですね。

そのほうが「ああ、なるほど」って話が分かりやすいでしょ。

 

小説はその「ああなるほど」という個人の経験則を通してでなければ感じえない納得に向けて書かれているんです。

 

「今日の営業は成果がありませんでした・・・」と言うより「今日の営業はのれんに腕押し、糠に釘でした・・・」と言う方がより相手に理解しやすく伝わりますよね?営業姿勢やら相手の表情やら相当な情報量がとびこんでくる。いままで手ごたえのなかったありし日のことまで思い出す。

 

 

作者のプロフィールはそこまで重要じゃない

 

こんなこと言うと一部の文学者に喧嘩をうることになるかもしれませんが・・・、確かに功績をのこした本人は敬うべきですけど、そのテクストが成立した時代や同時代を生きた人々に目をむけることのほうが重要だと思うんですよ。決して作者をないがしろにするつもりはありません。

 

というのも、今回の『吾輩は猫である』もそうですが、この時代に「生の意味」「人生」とはといった命題を自分で引き入れて、悩んで、悩みつくしてテクストで回答を出せるのは確かに夏目漱石だけだったかもしれないからです。

 

ただ「漱石は~?」、と漱石を主人公の疑問符にしていたらいつまでもそれは漱石のテクストであって、読者が自分のテクストにするにはいったん書き手とテクストを分離する必要があるのです。

 

「漱石はどこそこで生まれてどこそこの高校を出て何年にはこうした職業につき妻はだれだれで・・・」

 

って詳しいプロフィールを研究されてる文学者は星の数ほどいるでしょう。

 

が、

 

「だからなんだよ!オタク趣味はどうでもいいんだよ!」

 

ってなりません?

 

文学ってそこが一番大事なわけ?と。

 

 

それよりも作家と言うのは個人というものよりむしろその時代を生きた人物たちの代表、とは言い過ぎですが、あるテクストというのはその時代を敏感にかぎとったある一人の人間が文字に書き起こしたと考えるのが妥当です。

 

 

たとえば私たちは「なぜ漱石は猫の視点から描いたのか?」と考えがちですが、(もちろん大切ですよ、おもしろいし、)それよりも「猫の視点で書くことで何が起きるか?」にスポットをあてたほうが、より自分を通しての読解になると思うんですよね。

 

漱石さんが「あーあ、どうせなら猫になっちまいてぇなぁ」と思ってたことはばしばし感じますがw

 

 

 

「個」の時代とはなにか

 

作品に戻ります。

 

今までさんざん「猫」に語らせてきた漱石ですが、最後は本腰を入れてこれからの「個」の時代について主人公・苦沙弥先生に語らせます。ここでようやく「人間」に語らせるのです。いよいよおふざけなしで語り掛けてきます。

 

結論から言えば、「個」が強くなる時代において「夫婦」と「芸術」は死に絶える、という主張です。

 

「個」が強くなるということはつまり、一人ひとりの「自覚心」が強くなりすぎることだと苦沙弥先生は言います。(漱石が言っているといっても過言じゃないと思いますが。)

 

「自覚心が強すぎる」その状態を漱石は、

  • 「今の人の自覚心と云うのは自己と他人の間に截然たる利害の鴻溝があると云う事を知り過ぎている」
  • 「鏡の前を通る毎に自己の影を写して見なければ気が済まぬ程瞬時も自己を忘るる事の出来ない人」
  • 「寐てもおれ、覚めてもおれ」
  • 「丁度見合いをする若い男女の心持」

 

などと表し、冷めた目で見ています。

 

そしてそんな「自覚心の強すぎる人間」ばかりになると世はどうなるかといえば、

 

「個」が強い時代にはありとあらゆる人間が「自分だって人間だぞ」と主張しながら生きていくことになる。人から容易に権利を侵されなくなったのはいいが、人に対して簡単に侵すことができなくなった点で言えば「個」というのは人間として弱くなったともいえる。そうなったとき、少しでも侵されまいと自分の領域は固守するが、少しでもあいている領域は自分のものにしようと「個」というものははち切れんばかりに肥大して、苦し気に生きている、これが「個」が強い時代というものだ。

 

そう漱石は解釈しています。

 

まさに今の時代に繋がっていますね・・・

 

 

 

そしてこの「個性を主張しすぎる」「自覚心が強すぎる」ことが結婚や芸術にも影響するというのです。

 

 

「結婚」「芸術」への影響

 

まず「結婚」に関しては、こう述べます。

 

今の人の考では一所に居るから夫婦だと思ってる。それが大きな了見違いさ。一所に居るためには一所に居るに充分なるだけ個性が合わなければならないだろう。昔しなら文句はないさ、異体同心とか云って、目には夫婦二人に見えるが、内実は一人前なんだからね。(中略)今はそうは行かないやね。夫はあくまでも夫で妻はどうしたって妻だからね。その妻が女学校で行燈袴を穿いて牢乎たる個性を鍛え上げて、束髪姿で乗り込んでくるんだから、とても夫の思い通りになる訳がない。又夫の思い通りになる様な妻なら妻じゃない人形だからね。賢夫人になればなる程個性は凄い程発達する。発達すればする程夫と合わなくなる。合わなければ自然の勢 夫と衝突する。だから賢妻と名がつく以上は朝から晩まで夫と衝突している。まことに結構な事だが、賢妻を迎えれば迎える程双方共苦しみの程度が増してくる。(中略)ここに於て夫婦雑居は御互の損だと云う事が次第に人間に分かってくる。

(夏目漱石『吾輩は猫である』新潮文庫p524~525)

 

『吾輩は猫である』が書かれたのは明治38年(1905年)頃で、日本で女性解放運動が興隆するもう少し前になります。女が学問して賢くなるから夫婦で衝突するんだとか今これ主張したらツイッターでべらぼうに叩かれるやつですね。

 

学問を学んだ女学生がすべて夫たる男と衝突しているかは確かではありませんが、「個性」というものが衝突を引き起こすことは間違いないでしょう。しだいに「二人でいるのは損だ」と思えば自然、別れることになるのです。確かに女にも学問を学ぶ権利が与えられたことで自立する力が高まり、一人でも生きていけるようになった、また離婚という手を選べるようになったことが離婚率の上昇を後押ししているのでしょう。もちろんそれだけではないでしょうが。

 

 

 

「芸術」に関しては、このように述べています。

 

芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展というのは個性の自由という意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術家と享受者の間に個性の一致があるからだろう。

(同書p527)

 

これはどうでしょう・・・いまだ人間に「共感」「思いやる」という技術があればまだ生き残るような気がしています。

 

ただもう漱石の予感はある意味的中して、自由恋愛結婚に移行してからの日本の離婚率はすさまじく上昇、一部同性婚も認められ、男女の「終身婚姻」はいよいよ瓦解するぎりぎりのところまで来ています。文明の発達に伴っていつ、どこにいてもいま、ここでない「映像」や「文章」がリアルタイムで見られる、かつ再生可能な表現方法に親しむあまりに、「一回限りの生」を体現するような「芸術」も死にはじめているのではないかと思います。

 

「分かり合う」以前に未分化だった集団の個性がバラバラになり、分かり合えない事をしってしまった私たち「個」の人間は、いったいどこを目指していきていけばよいのでしょうか?

 

以前、noteや他の記事にも書いたように、私はまた人間が「共同体」を志すようになると踏んでいます。

 

夫婦でも、家庭でもない、そして個でもない何か。それを志向していくのだと思います。

 

 

こんな人におすすめです

 

だいぶ最後はシリアスになってしまいました。

 

この『吾輩は猫である』という作品は、「猫に社会批評を語らせること」が第一義で、話の筋というのは横に置いておかれます。もちろんエピソードは一つ一つ面白いのですが、ミステリーや推理小説などに流ちょうに筋が組み立てられてさくさく話が進んでいく小説に馴染んでいる方には退屈に思われるかもしれません。

 

しいてどんな人に向いているかといえば。

文明開化後の時代を生きた人、ちょうど外来の思想が入ってきて日本人の考え方や生き方、文化文明が大きく変わった頃を生きた人の考え方に触れたい人、その考え方に触れることで自己自身を読み直したい人、今の時代を読み直したい人におすすめです。

 

もちろんどの時代が人間にとって、日本人にとって正しいか、というのは問題ではありません。

 

(厳密にいうとこういうスタンスも一過性の流行かもしれませんが、ね)

 

 

まとめ。

物語が読まれなくなっている時代に、ぜひ今こそ、時代の洗礼を受けた著名な小説に手を出してみてはいかがでしょうか。お正月のまとまったお休みにどうですか?

 

得るものは想像以上だと思います。

 

 

 

それでは!

 

♪今日の一冊♪

夏目漱石/『吾輩は猫である』

吾輩は猫である (新潮文庫)

吾輩は猫である (新潮文庫)

 

 

 

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