ピエールの心臓

フリーランスを目指す「20代×転勤族の妻×専業主婦」のブログ。転妻ライフ・文学・インテリアが中心。自称「健やかなスピリチュアル研究家」。

プライバシーと芸術の境目はどこにあるか?

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どうもこんにちわ。

 

とうとう身バレが起きてしまいました。双耳です。

 

 

どこまで世間に「告白」してよいか?

 

今は開き直って、今回のことからすぐにこう思い当たったので書き記したいと思います。

 

それは、

 

 

「他人のプライバシーと芸術との境目はいったいどこにあるのか。」

 

 

という難題です。

 

 

私小説のプライバシー

 

 

最近アリアナ・グランデさんが歌詞に今までの恋人の名前を列挙した曲をリリースされたことで有名ですね。

 

たんなるリスナーは歌詞のリアルさに心を動かされるでしょうが、暴露された本人はどう思うのでしょうか?

 

これもやはり芸術の一種なのでしょうか。

 

 

 

 

また、随分昔に物議がかもされた「私小説のプライバシー」という懸念もあります。

 

 

有名なのは田山花袋「蒲団」や森鴎外「舞姫」、谷崎潤一郎「蓼食う虫」、太宰治の「人間失格」三島由紀夫の「仮面の告白」あたりでしょうか。

 

私小説は、実際に作者の身の回りで起こった事実をもとに物語として脚色して成立させたものです。一人称は「私」であるか、自分を仮託した主人公であることがほとんどです。

 

先に挙げた小説のすべてがすべて私小説のくくりではないですが、事実をもとに書かれているといわれています。

 

いま生きる私たちが読めば「告白の文学」として素晴らしいものと評価されますが、その時生きていた、実在の登場人物たちはどんな気持ちで作品の発表をうけとめていたのでしょうか。

 

 

 

いったい、自分のプライベートな事件をどこまで芸術表現として認めることができるのでしょうか。

 

 

これはどこまで「ネタ」として扱ってよいのかと同義であります。

 

 

作者や周囲が「これは芸術として残しておかねばならない」といえば、プライベートを暴かれた本人は嫌だと言っているのにそれを人前にさらし続けてもよいものでしょうか?

 

それにしても、「人々にひらかれるべきもの」だと、どのように判断するのでしょうか?

 

 

ネタを世間に公表してよいか・悪いかをどんな基準で選別したらよいのでしょうか。

 

文字はそもそも真実を語れない

 

加えて、そもそも文字とはたとえ「事実」に立脚していようがほんとうに「真実」を表現できるのか?という疑問もあります。

 

いうなれば絵というものはどんなに本物に似せても本物そのものではないからです。

 

 

事実を書いてほしいと願ったノンフィクション小説「冷血」の殺人犯の件も然りです。

 

 

 

 

文字にするとなぜかすべてがフィクション(虚構)になるのです。

そもそもが嘘なのです。

 

 

 

事実がすべて嘘としてしか表現できない苦しみ。

 

 

 

 

週刊誌のスクープとプライバシー

 

 

少し話がそれますが、この「プライバシーと芸術の境目はどこか」という命題と「人のプライバシーを商品にしてもよいか」は近しい問題だと思います。

 

 

これは週刊誌がどれだけ有名人のスクープを載せていいかという話にもつながるということです。

 

名誉を棄損しなければ何をしてもいいのか、いったいぜんたい誰が基準を決めているのでしょうか。

 

 

 

基準はない。つくることも難しい。

 

結論を言うと、「プライバシーと芸術の境目」は発表する作者が恣意的に決めている、ということです。

 

 

 

悪いことのようにもきこえますが、「内部からの訴え」「暴露」が必要なケースもあるので一概には決められないでしょう。

 

だから法律もないのでしょう。

 

 

 

 

 

そんなことを考えて昨晩は一睡もできませんでした。

 

 

 

 

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