ピエールの心臓

フリーランスを目指す「20代×転勤族の妻×専業主婦」のブログ。転妻ライフ・文学・インテリアが中心。自称「健やかなスピリチュアル研究家」。

【心療内科経過観察⑨】抑うつ感情を変えた考え方

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ご無沙汰してます、双耳です。

 

久しく物を書く気分になれなかったので、自分の感情に素直に従っていました。正直なところ、「物を書く気分になれない」というのは自分にとっては非常に幸福な時間なのであります。

 

以前この日記で「文筆の適性」について考えていたのだけど、やはり紙面やらインターネットの海やらにわざわざ文字を書き込みに行くのは相当な体力というか労力がいると思うんですよ。それだけ書くことへ当人を動かす圧倒的な感情のゆさぶりがないと「書く」という行為は生まれてこない。何かしらへの激しい思い、怒り、悲しみ、そういったものが書くという出力行為へ人をいざなっている。

 

今回久方ぶりに筆を執ったのは、海は決して「凪」ばかりじゃないといいますか、少し白波が立ったといいますか、要するに読んだ本が面白かったので自分と重ね合わせて感想を書きたくなったということです。

 

 

フラニーとズーイ

 

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

読んだのは、サリンジャーの『フラニーとズーイ』です。『フラニー』と『ズーイ』という2つの短編小説を合わせて出版されたものですが、実質一つの作品といっていいでしょう。

 

テーマは「他人のエゴとの向き合い方」

 

 

フラニーの悩み

 

主人公の一人、フラニー(大学生の女の子)は悩みます。

 

「知ったかぶりの連中や、うぬぼれの強いちっぽけなこき下ろし屋に私はうんざりしていて、ほんとに悲鳴を上げる寸前なの」(P33)

 

「私はただ、溢れまくっているエゴにうんざりしているだけ。私自身のエゴに、みんなのエゴに。どこかに到達したい、何か立派なことを成し遂げたい、興味深い人間になりたい、そんなことを考えている人々に、私は辟易しているの。そういうのって私にはもう我慢できない。実に、実に。誰が何と言おうと、そんなのどうでもいいのよ」(P51)

 

 

耳が痛いですね。

 

自分を含め、「何者かになりたい」と思うがゆえに他者を否定してみたり、それをネットに書き込んでみたり、写真をアップしてみたり・・・・・・・

 

というか現代でエゴイストでない人間を見つける方が難しいですね。今は生き方の軸が「神」や「全体」や「共同体」ではなく「個人」になっていますし、それをヨシとしている節がありますから。でなきゃ働き方改革やらパートナーシップ制度やら生まれてきません。

 

でもそれって全部が全部自分で自分の人生に責任を負わないといけないわけだから、しんどい生き方だと思うんですけどね・・・・

 

神や他人の作った「真理」に安易に身をゆだねていた方が、自分で意思決定をしなくてよいので随分とお気楽に生きていけます。

 

 

 

 

フラニーは溢れかえる人々のエゴに絶望し、一冊の宗教書をよりどころに神への祈りを口にすることで救いを求めます。食事もろくすっぽとらずにお祈りを続けるフラニーの姿に、みかねた兄ズーイが言葉をつくして自分の殻にこもる妹を救い出そうとします。

 

 

ズーイの答え

 

フラニーの悩みに対するズーイの答えは大きくわけて2つだと感じました。

 

1つはクライマックスにもあるように、エゴったらしく見える人間もあのイエスでさえ変わらず「人間」であるということ。聖と俗は同じものだということ。

 

2つめはタイトルにあるように、「この世界は自分のものではない」ということ。

 

 「(…)君はエゴについて語り続けている。しかしね、何がエゴであって何がエゴでないか、それを決めるなんて、まったくの話、キリストその人でもなきゃできないことなんだよ。なあ、ここは神の宇宙であって、君の宇宙じゃないんだよ。そして何がエゴで何がエゴでないかを最終的に決めるのは、神様なんだよ。」(P240)

 

 

大いなる他者に真理をゆだねること

 

私自身はさして信心深い人間ではないしそもそも特定の神様がいるわけでもないのですが、自分よりはるかに大きな存在がこの世界を牛耳っていると考えるといろんなことがすっきり肩の荷が下りるというか「あー別に自分ひとり頑張んなくていいんだ」という気持ちになります。

 

だから占いとか、好きなんですよね。

 

神がいないということは、この世界が存在する理由すら失うわけだから、自分たちが一体なんのために生きているのかわからなくなる。これが神のいない人間が最も苦しいところ。逆に、自分よりはるかに広大な存在または原理があると仮定するだけでなんとなく人生に意味が現れる。

 

日本人はとくにキリスト教やイスラム教のように「神の絶対的な真理」に支配されてこなかった民族性のため、何から何まで「人間」が行動原理の決定権を持っていました。しかし個人が人生すべて考えて考えて考え抜いてひとつひとつ決定していったら、本当に息が詰まる。だからできるだけ他人に意思決定をゆだねていたほうがラクです。

 

「人の敷いたレール」というのは、近ごろ軽視される傾向にありますが、ある意志力の強い人間が何もない混沌の世界から手探りで道を選んで選んで血のにじむような努力でようやく築き上げた道なのです。自分が果たして、人が続くような、安心して乗れるようなレールを敷くことができるか?と聞かれたら自信がないですもの。

 

意志力を求められる現代だからこそ

 

このところ、「個人」の力が大きくなったからこそ、自分で人生を切り開いていくことが正義だなんて風潮がありますが、クソくらえだと思ってます。

 

世界を変える側の人間ばかりだと、意志力が弱い人間には生き辛くってたまらない。みんながみんな人生を自己決定できるわけではないので、山にいたはずが流されて流されて海に出ちゃってわけわからなくなっても、海には海の摂理があると思えばいいのです。

 

ま、その摂理は誰かの借り物なわけですけど。

 

自分で自分の行動原理が生み出せない人は少なくありません。でも、それでいいのです。

 

要するに、自分で道を開ける人はひらいていけばいいし、流されるしか能のないひとはそれでもいいってことです。

 

ここはあなたやあの人の世界ではないから気に病むことはないのです。

 

何が正しいかを決めるのは大いなる存在だと仮定すればよいのです。人間ばかりがこの世のすべてを決定づけていると考えると自分もその一人にカウントされてしまうからしんどいのです。

 

すべて自分で責任を負うことでウツになる必要なんてないのです。

 

 

精神状態良好です

 

昨年の10月から精神的に袋小路に入ってしまい、随分と自分の人生に悲観的になっていました。あまりに気が滅入るので、メンタルクリニックの扉をたたきました。

 

薬物療法を半年間つづけていますが、大変良好になってきました。

 

マイナスなことばかり考えてしまうのは、思考が混線していたからで、それを薬で解きほぐせば簡単に渋滞が解消してくれました。

 

今回『フラニーとズーイ』を読んで思うのは、自分がうつ気味になった原因は、

 

自分の人生気負い過ぎ」

 

だったんじゃないかということですね。正直フラニーが言うように「何者かにならなければならない」という意識が先行していました。それと転妻という立場に板挟みになりひどく憂うつになりました。何者にもなれない自分なんて生きている価値がないとまで、思いました。

 

でも今は「少しくらい流されて生きても別にいいや」と思えるようになりました。ほんとに肩の荷がおりた。

 

ただし全部が全部人任せだと脳味噌の細胞がストレス欠乏で死んでしまいそうだから、折々で自分で意思決定はしています。新しい仕事も自分の意思で始めました。

 

本当に月並みですけど、

 

人生、「気楽にいこうぜ」、につきますね。。。。

 

 

 

今日はここまで。読んでくださってありがとうございました。

 

 

今日の一冊♪

サリンジャー/フラニーとズーイ

フラニーとズーイ (新潮文庫)

フラニーとズーイ (新潮文庫)

 

 

 

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